さて、みなさんこんにちは。
トレンドアフィのようなタイトルにつられてやってきたあなたは、きっと僕、ナナシロに興味があるのでしょう……。笑
はい、おふざけはこの辺にしておきます。
というわけで、改めまして。
当ブログ・ナナシログを運営しているナナシロ(@nanashiro1988)と申します。
僕は仕事や肩書きが大量にあり、一言で語るのが難解な人間のため、年代ごとに順を追って経歴を紹介していきますね。
読めばだいたい僕のプロフィールが分かるんじゃないかと思います。
ちょっと長くなる上に、映画とかドラマみたいなシーン結構あるんで、普通に伝記を読むくらいの覚悟で読んでください。
目次
経歴
幼少期
1988年3月22日、クリエイティブディレクターの父と美大卒で元デザイナーの母の間に、2人兄弟の長男として生まれました。
生まれも育ちも東京は高円寺の近く、血液型はA型(Rh+)で、牡羊座です。
あ、本名は眞保淳一(しんぽじゅんいち)です。
なぜナナシロという芸名を使用するようになったかは、後ほど書きます。
話を戻します。
僕が生まれたのはかの著名な芸術家、岡本太郎氏が遠戚にいる美術系一家でした。
(参照:Wikipedia)
この時期を特筆すべきことだけかいつまんで話すと、キッズモデルとして新聞や婦人向け雑誌に載りながらも、図鑑を読むのと色鉛筆をグラデーションに並べるのが好きな自閉気味な私立幼稚園生でした。(一息で言った)
噂によるとIQが140近くあったらしいです。
図鑑を読んだ端から暗記していく癖があったため、昆虫図鑑は一冊まるまる頭の中に入っており、小学校入学と同時につけられたあだ名は「昆虫博士」でした。
小学生時代
「昆虫博士」と呼ばれる特質があったため、ハブられたりいじめられたりはなかったのですが、とにかく引っ込み思案ではにかみ屋だったため、特定の仲良しな友達ができませんでした。
かなりの癇癪持ちで、家でも学校でも突然暴れることが多かったため、「キレると怖い」と周りから思われていたと思います。
教室で班の形になって座っているとき、目の前の女の子の顔面を殴ってしまい先生の呼び出しをくらったのですが、自分でもなんで殴ったか分かりませんでした。
たぶん何かストレスがあったんでしょうね……。
今もそうですが、大変繊細で複雑な性格をしている上に、突飛で風変わりな行動が多いため、僕と付き合いのある人たちは理解に苦しむことが多かったでしょうね〜〜。(他人事)
なお、この頃からクリエイティビティーが芽生えはじめ、1万字以上の小説を書いてハンドメイドで製本したり、昆虫の標本を作ったりしていました。
また、友達や弟と独自の遊びを開発してよく遊んでいました。
当時から「世の中にすでにある物事を楽しむより、自分で新しいものを作りたい」という欲求が強かったです。
中学生時代
興味が散漫で、サッカーのクラブチームに所属しながら、バレーボール部、美術部、合唱部に所属。
引っ込み思案でおとなしいはにかみ屋というのは小学生時代から変わらず、先生からとても気に入られていました。
ですが、忘れ物大王だったため先生からは「返事はいいのに、三歩歩いたら忘れる眞保くん」とも言われていました。
この頃から、イラストを描き始めるようになりますが、とにかくかわいいものが大好きだった僕が最初に見ながら描いたのは、デ・ジ・キャラットのぷちこでした。
(参照:でじこのへや DiGiCarat Official WebSite)
覚えている限り、この頃から独自の哲学を持つようになります。
文集の将来の夢の欄に「教祖」と書いたり、初めてディズニーランドへ行って

と言ったり、かなりクセの強いとがった中学生だったと思います。
ですが、やはり一貫しているのは「自分の手で新しいものを創造する」ということでした。
興味の対象がゲームや遊びから宗教という抽象的なものに変わっただけで、本質は一緒ですね。
そしてこの頃は、第二次性徴に伴い自分の心の中には男性だけでなく女性もいると感じることが増え、「自分は周りの子たちとちょっと違う」という疎外感を感じた時期でもありました。
声変わりの所為で合唱のパートをアルトからバスまで落とされて絶望し、一生懸命高い声を出せるように努力したのは地獄のような思い出です。
誰とでもそつなく付き合えるけど、興味関心や嗜好、価値観、あらゆるものが同級生と違いすぎて苦しかったことを覚えています。
高校生時代
高校時代は、成績もIQテストも学年トップクラス、サッカー部ではレギュラー、運動会ではリレーのアンカー。
その上、先生からの信頼も厚い無双状態。
ですが、性自認や性志向から来るアイデンティティや人間関係のストレスを慢性的に抱えていました。
友達はたくさんいましたが、誰一人として打ち解けることができませんでした。
性的な悩みや、興味が他者との関係性より自分の思考世界に向いていたことなどが関係していたのかもしれません。
いつしか僕は女性の身体の曲線や肉体の断面に興味を持ち、クラスの女子たちを勝手にモデルにして描くようになっていました。
そしてそれが彼女たちにバレて、クラスの女子から総スカン食らうことになります。
当然ですが、同窓会など呼ばれません。笑
今振り返っても、狂気に満ちていた高校生活だったと思います。
そんな狂乱の高校生活でしたが、一方で、自分で仕事を生み出すことを覚えた時期でもありました。
一番権力を持っている生徒指導の先生に営業をかけ、イラスト部の仕事を奪い(最低)、個人で遠足のしおりのイラストをすべて担当させてもらうなどしていました。
なお、中学時代に「教祖」を目指した少年は、今度は進路希望調査票に「神」と書いて、方々から叱られました。
ですが、実際に本気で神になろうとしていたので、僕の信ずる神の在り方にもっとも近い神道を学べる国学院大学神道学部を目指しましたが、当然ながらリジェクト(却下)されました。
こういった自由奔放な発想力とそれを行動に移す臆面の無さが、徐々に頭角を表していきます。
(奇行に走る狂人以外の何者でもありませんが)
「神に近づけないんだったら別になんでもいいな」と思っていたら、内申がほぼオール5だったため、指定校推薦で青山学院大学の文学部史学科芸術史コース※に入学することになりました。
(※現在は文学部比較芸術学科)
大学時代
サークルは漫画研究会に所属し、卒業までに漫画を6〜7作品ほど作りました。
大学祭のときの漫研の出し物が似顔絵屋だったのですが、ちょうど学祭特集で取材にきていたNHKの某テレビ番組に出演し、つるの剛士さんに似顔絵を描くことになりました。
これは芸能界に興味を持つ良いきっかけになりましたね。
(小っ恥ずかしいことに、「タッチを七色に描きわける似顔絵師」なんて紹介されていました)
大学はもっぱらサークルのためだけに通学し、講座にはほとんど出席していない典型的なダメ学生でした。笑
その代わり、塾講師のバイトにのめり込んでいました。
もともとは子供嫌いを克服するために始めたバイトだったのですが、いつの間にかどハマり。
さまざまな人の人生に向き合うことに大きなやりがいを感じましたね。
現在の仕事にも活かせているトーク力や指導力はここで鍛えました。
僕が配属されていた塾の教室は、東大が近かったため先生がほとんど東大生でした。
一流の私立中高を目指す受験生はみんな現役東大生の先生に教わっていましたが、通っている生徒はそういう人ばかりではありません。
- 引きこもりや不登校の子
- 親の期待が大きすぎて潰れてしまった子
- 自閉症等の障害があり特別学級に通っている子
……と、本当にさまざまな子がいます。
僕はいつしか、他の先生たちが受け持てない一癖も二癖もある子を専門で受け持つ講師となっていました。
独創的で協調が苦手、多動で奇行が多い彼らは、僕自身を見ているようでした。
一般的には、海外旅行や友人たちとの交際の中で多様な世界を知るパターンが多いと思われますが、僕は教育を通じて多様性を知りました。
それゆえ、大学でも専門の歴史学の研究はそっちのけで、自分が性別に対する違和感を持っていたことからLGBTQやジェンダー論、発達障害や精神疾患等について独自に研究しました。
また、世界中の民族の文化が研究対象になる「文化人類学」という学問に出会ったことも大きかったですね。
このように塾講師のバイトをきっかけに世界の広さを知った僕でしたが、教職課程をとっていて教育実習まで行ったにも関わらず、教授ともめて教員免許を取得できませんでした。
いえ、正確に言うと取得しようとしませんでした。
そのときの僕は、教育実習でのある出来事がきっかけで、もう日本の公教育に携わりたいという気持ちは微塵もなくなっていたのです。
それは指導教諭のたった一言が引き金でした。
教育実習中に僕が一生懸命相談に乗ってあげていた生徒のことを、指導教諭が

と一蹴したんです。
あれを見たとき、僕は絶対に教師にはならないと誓いました。
今でも思い出すと体が震えるほど怒りが湧きます。
新卒で教育ベンチャーへ就職
前述の教育実習の出来事があったからですかね。
就活では出版社やおもちゃメーカーなどを受けたもののすべてで落ち、結果的に教育のベンチャー企業に入ることになりました。
ただ、この企業へ入ったことがまた大きな僕のターニングポイントになりました。
僕が新卒で入った企業は、教育のベンチャーとは名ばかりでただの訪問販売会社。
仕事内容は、学力テストを田舎の中学生がいる家庭に売り込むこと。
テストの結果を伝える名目で先輩社員が後日往訪し、そこで教材をローン組んで買ってもらうという、大変評判の悪い仕事でした。
最初こそ、見事に洗脳されており全国でも上位の売り上げを出したものの、2ヶ月目にはもう完全にやる気を失ってしまったんです。
それは、塾講師を経て世の中の広さを知った大学時代のときよりも衝撃の大きい出来事があったからでした。
僕はずっと都会育ちで、実は就職するまで目の前で田んぼを見たことがなかったんです。
そんな僕が入社して初めて営業で回ったのは、電車の駅まで車で1時間はかかる田舎。
田畑と住宅街が交互に現れるような集落でした。
数日かけて何十件も回っていくわけですが、そんなある日の夕方、一軒の家を訪れました。
その家は傍目から見ると廃墟のようでしたが、薄暗く電気がついています。
玄関のドアへ行こうとすると、その前は草がぼうぼうに生えているんです。
仕方なく離れたところから「すみません」と呼ぶと、中から3人の子供たちと母親が出てきました。
恰幅が良く水商売か何かをやっているであろう母親は、
「汚くてごめんね、縁側でいい?」
と言って、縁側で中学生の長男と並んで僕の営業トークを聞いてくれました。
ほとんどの家で断られる中で、この家のお母さんはかなり前向きに考えてくれました。
息子さんもテスト受けたいと縦に首を振ってくれています。
もうこれは契約取れそうだ、とサインを求めると、お母さんの顔が曇るんですよね。

と僕が聞くと、

と母親は中学生の息子さんに聞くんです。

と、野次馬している妹たちをかき分け、室内に戻っていった息子さん。
自分の貯金箱から出したであろう、千円札を握りしめて戻ってきた。

たった1,500円のテストなんです。
それを親が払うことができなかったんです。
「小遣い月いくら?」「うち1万円」「え、いいなー」
みたいな中学時代を送っていた僕にとって、この出来事は雷に打たれたような気持ちでした。
そして帰社してこの話を上司にすると、さらに信じられないようなことを言うんです。

うさぎ小屋。
それは教育系の訪販業界の隠語でした。
意味は、「営業してはいけない(教材のローン組む余裕のない低所得の)家」です。
自分はいったいこれまでどこで暮らしてきたんだ。
僕はいったい何を知った気になっていたんだ。
そういった思考が頭をぐるぐると渦巻き、僕は身動きができなくなってしまいました。
結果、業績がガタ落ちして新卒でありながら半年で会社をクビになったのです。
手に職をつけるために専門スクールへ
社宅借り上げだったため、仕事と家をいっぺんに失いました。
しかもたぶんこの頃鬱病だったと思うので、親がいなかったら自殺していたと思います。
ひとまず実家に帰り、生まれて初めて親に人生相談をしました。
すると父親から、

と言われました。
正直、生きることへのモチベーションが下がっていて半信半疑だったのですが、親に100万借金をしてデジタルハリウッドのスクールに通い始めました。
コースは半年間のWebデザインコース。
真面目に受講するのか……と思いきや、先生の話を聞かずどんどん作業を進める始末。
当然怒られました。笑
ですが、小さい頃から培ってきた自分で考え自分で進める癖がWebサイト制作を学ぶ上で功を奏したと思っています。
デザインもコーディングもどんどん作ることにのめり込んで、好き勝手に作りまくりました。
ちなみに、初めて作った自分のWebサイトはフルFLASHのアニメーションしまくるサイトでした。
今思うとその気力どこから出てきたのって感じですが(笑)
楽しかったんですよね、物を作ることが。
ニート時代
すっかり物作りに味を占めてしまい、毎日好きなWebサイトやシステム、デザイン等を作りまくっていました。
転職する手段としてWebデザインを学んだはずが、手段がゴールになっちゃってたんですよね。
最初こそ楽しく物作りしていたんですが、社会と接点がなくなったことにより徐々にメンタルに不調をきたしました。
途中からもう何をしていても精神が辛いという状態になり、ようやく転職活動を始めることに。
ただ、このニート期間は悪いことばかりでもなく、ニートをしていたからこそ学べたことが2つありました。
それは、
- 自分の好きなことで誰かを幸せにできると自分も幸せということ
- Web制作系のスキルがあれば再就職は容易ということ
ということ。
これらが今の仕事観に繋がっている部分があるかもしれません。
Webデザイナー会社員時代
脱ニートをして、Webのシステム開発の会社にWebデザイナーとして入社しました。
40代社長がシニア起業した中小企業でしたが、社長はYahoo!出身、CTOはSONY出身で、本当に少数精鋭のベンチャーでした。
合理主義な社長からは「売り上げに繋がるなら何をしてもいい」と言われました。
僕は勝手にWeb制作の仕事をとってきたり、既存顧客へ企画提案をおこなって動画撮影やブログ執筆をおこなったり、Webデザイン以外のさまざまな仕事をおこないました。
また、会社の仕事が一時的に少なかった時期に、派遣にも出してもらいました。
派遣先は大手SIerで、何億とお金が動く大規模プロジェクトにWebデザイナー兼ディレクターとして従事し、ベンチャーではできない経験もしました。
同じく派遣で来ていた先輩方や派遣先の企業の社員さんたちから、数多くの仕事のいろはを教わりましたね。
この時期はとにかく多種多様な経験を積めて、さまざまなスキルを身につけることができました。
しかし一方で、
・タスク管理や時間管理が異常にできない
・忘れ物やなくし物が多い
・遅刻や突発的な欠席が多い
・指示を受けたことと別のことを始めてしまう
・パフォーマンスがまったく安定しない
・落ち着きがないかと思えば永遠に集中してしまう
など、極端に苦手なことがあることに気がつきました。
社長は一生懸命僕のことを育てようとしましたが、なかなか改善せず、徐々に社内での立場が悪くなっていきました。
コミュニケーション能力と技術力は人並み以上にあるのに、毎日小学生のようなことで叱られていて、「これはおかしい」と思うようになりました。
そこで僕は、初めて精神科医にかかり、「発達障害(ADHD)の可能性が高い」と言われました。
自分の能力のでこぼこの正体が分かり、ホッとしたことをよく覚えています。
障害者手帳をもらうには専門の外来での診断が必要なのですが、僕は正式な診断をしませんでした。
というのも、障害であるかどうかは僕にとっては小さなことに過ぎなかったからです。
障害者として社会に合わせて生きていくより、自分の人生を大きな実験場としてあらゆる実験を繰り返して、自分にあった社会を自分で作り上げてしまえばいい、と考えました。
そうやって道なき道を切り拓いていけば、自分と似た悩みを抱える多くの人たちの救いにもなるはず、とも考えました。
この辺でも、小さい頃から一貫して変わらない僕の思考が垣間見えますね。笑
当時、うつの症状もあって勤続が難しそうだったので、とりあえず会社を辞めてしまいました。
ちなみに退職理由は、

だった所為で、社長から呆れられました。(当たり前だろ)
なお、このとき貯金は20万円だけ、転職先も未定という状態でした。
あ、退職理由にしただけのことはあって実際YouTubeはやっていましたが、収益月数千円っていうレベルでした。笑
フリーター時代
ですが、このときの僕には確信がありました。

と。
それを実現するために5年くらいの猶予を決め、下記の指針に従って行動することにしました。
- スペシャリストではなくゼネラリストを目指す
- オンラインのスキルとオフラインのスキルを身に着ける
- お金の価値に関する固定観念を払拭する
- 現在存在しない仕事を自分で作る
そこでまず、週5勤務の会社員ではゼネラリストを目指しにくいので、正社員を目指さずフリーターに転身。
しかもこれまでやってきたWebデザイナーではなく、フロントエンドエンジニアでの転職でした。
これによって、フロントエンドのプログラミング言語も習得できて、幅が広がると考えたのです。
詳しくは別途記事に書くと思いますが、そのWebエンジニアとしてのアルバイトと並行して、さまざまな活動をおこないました。
期間的には2年半くらいですが、その間にやったことをザッと箇条書きにしておきます。
- (引き続きですが)怪談師としてイベント出演
- ファッションショーのディレクターとして縫製スタッフのキャスティングと統括
- 現代アーティストとして作品制作と展示
- 現代アートの公募展で受賞
- 現代アートの企画展をキュレーション
- 東京藝大のミスコンのPV監督
- 添い寝屋(女性の家へ行って隣で話を聞きながら寝る)
- 添い寝のことやLGBTQのことを恋愛ライターとして執筆
- エンジニア志望者向けの家庭教師
- Webデザインの賞に応募して入賞
ちなみに、YouTubeは飽きてしまって完全に活動休止しておりました……。(お前)
とにかく365日ノンストップで、思いついたことを片っ端からやっていきました。
そのおかげで、パソコン一つあれば稼げるWebデザインとプログラミング、Webライティングの技術を身につけつつ、パソコンすらなくても怪談師や家庭教師で食っていける自信がつきました。
それと、人から面白いと思ってもらえることをやり続けていれば、絶対に人から見捨てられないこともこの時期に実感しましたね。
友達と事業立ち上げ
この頃出会って意気投合した友人から

と誘いを受け、エンジニアのアルバイトをやめて、彼と一緒に事業を立ち上げることにします。
月額会員になれば、テレビ番組でT●KIOさんがやっているDASH村のようなことができる自信を持ってサービス。
クラウドファンディングで150万集めて始めた事業でしたが、開始1年以内に資金繰りが難しくなり事業はなくなってしまいました。
事業を手伝うにあたって友人の会社に入社していたので、事業をたたむと同時に退職せざるをえなくなり、さらには鬱病を発症していたため、日常生活が難しくなってしまいました。
そしてフリーランスへ
鬱でありながら、日によってとてつもなく躁状態のときがあり、ある日突然、友人女性にプロポーズして長野に移住、同棲を開始します。
しかし、婚約者も双極性障害で就労が難しかったため、生活はすぐにどん詰まりになりました。
僕の方が転がり込んだのだから、当たり前ですが僕がなんとかしなくてはなりません。
そこで、布団の中で唸りながら「仕事ください」とSNSに打ち込んだのが、僕のフリーランスの第一歩でした。
最初は長野で頑張ろうと思ったのですが、婚約者以外に周りに知人が一人もいない状況は大変苦しく、仕事を得るどころの話ではありませんでした。
そこで、同棲を解消し、フリーランスの聖地・千葉県富津市金谷へ移住することを決めます。
金谷のことは少し前にTwitterで知っていたので、ツテで金谷にあるシェアハウスに入居することになりました。
そこで、田舎フリーランス養成講座(通称:いなフリ)と出会います。
いなフリは、田舎で生活コストを抑えつつフリーランスとして独立するための1ヶ月間の勉強合宿。
最初僕は、仕事がまったく無い状態だったため、いなフリを受講しようと思いました。
ですが、いなフリの担当者と面談させていただいたところ、

と言われたんですね。
そう、そうなんですよ。
どう生きても死なないスキルを5年かけて身につけてきたんです。
鬱病ゆえに自分に生きている価値はないと思い込んでいたんですが、そんなことはありませんでした。
今自分は病気で仕事をおこなえないだけで、正当な自己評価をくだせれば仕事はいくらでもとれるということに気付いたんですね。
そこで僕は2ヶ月ほど、フリーランスが集まる金谷を拠点にして仕事をしました。
金谷にいる人たちはみんな温かく、破天荒で暴れん坊な僕のことも拒絶せずに仲良くしてくれました。
彼らは無理に僕に働きかけようとせず、空気のように扱ってくれました。
鬱病のときって、変に気を遣われたり遠ざけられたりするの結構苦しいんですよね。
金谷の人たちは、僕がいたら話しかけてくれて、僕がいないときは気にせずにいてくれました。
その距離感のおかげで僕の心は徐々に快復していきました。
毎日朝起きて昼には外に出て仕事ができるようになったタイミングで、いなフリの講師をやらせてもらうことになりました。
複数事業を展開する事業主に
いなフリ講師になったのをきっかけに精神面がV字回復してからは、本来のアクティブさを取り戻して精力的に仕事をするようになりました。
鬱病の薬を買えなかったり、外気温が-11℃なのに灯油が買えなかったり、あと一歩で死んでいたほどお金が無くて困窮していた時期を乗り越えて、少し価値観に変化が生まれました。
かつてはアンチ貨幣経済を掲げて現代アート活動をしていたほど(詳細は割愛します。笑)、お金を稼いだり使ったりすることに抵抗があったんですが、

という気持ちになりました。
その甲斐あってか、たった1年で収入が0から月70万程度まで増えたんですね。
もともとは受託クリエイターとしてデザインやサイト制作、ライターとして受けた仕事をこなしていたんですが、稼ぐと決めてからは徐々にWebディレクターやプロデューサー、コンサルタントとしての仕事を増やしていきました。
さらに、YouTuberとしても世間にある程度知られる程度にはなったため、2019年上半期からは収益が倍増して今に至る……という感じです。
なお、2019年9月時点でですが、来年は新事業を立ち上げてそちらも収益化を目指して頑張っていこうと目論んでいます。
当ブログを更新する理由
いなフリの講師をやっていると、自分の経験に基づいて様々なことを受講生に教えるわけですが、僕のやっていることは再現性が低いとよく言われます。
それは、僕があらゆる課題に目標に対して、自分の頭で考えて自分にだけ100%フィットしたオリジナルの手段でアプローチするから、というのがあります。
ですが、僕にできるということは絶対に再現性があると思うのです。
なので、当ブログでは僕のやってきたこと、とりわけ、
- クリエイターとしての仕事のとり方
- アーティストとしてのブランディングの仕方
- 商品や作品を届けたい人に届ける方法
- 好きなことで生きていくためのマインドセット
について言語化して共有していきたいと考えています。
きっと、僕と同じように個性が爆発していて、それゆえに社会と合わなかったり、生きづらさを感じたり、精神疾患になったりしている方はいると思います。
その中でもとりわけ、クリエイティブやアート、自己表現などで自分の人生を切り開こうとしている人たちがいると思います。
このブログは、そういう方たちの生き方のヒントになればと思っています。
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